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zoom RSS とおるの読書  頼山陽(中村真一郎)(人物日本の歴史 15 封建の異端 小学館)

<<   作成日時 : 2009/07/28 13:16   >>

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頼山陽(中村真一郎)(人物日本の歴史 15 封建の異端 小学館)

  歴史人物を書くということは、考証に従ってその人物の関わることを年代順に書き進めて、その人物の時代の中での貢献や歴史事象との関わりを明確にしていくというのが普通ではないだろうか。
  
  ところが中村真一郎は 頼山陽の紹介の始から歴史人物を視るという事はどういうことなのかという考え方を幾つか取り出しながら、それぞれの考え方に従って頼山陽の人物を分析する手法で話を進めている。評価されている頼山陽の絵画とか、詩とか 有名な”日本外史”の中身のどうであるか、その由来や影響力は読者に示していない。

  例えば歴史上の人物の日常を紹介することは意味があるであろうかというような 意味があるかないか分からない事をクドクドと論じていく さらに読みすすめると実はこの書のほとんどが頼山陽の日常の紹介が中心なのである。例えば頼山陽の派手な遊蕩であるとか、関係した女弟子と愛人のからんだ経緯であるとか、自分の力で金銭を稼いでその金で大いに遊んだとか そのくせ相当のけちであったとか 感覚的な快楽主義至上主義者であった故に多方面に執念を燃やして作品を物にした そのようなことを主題に頼山陽を記述しているのである。

  日本外史がどういう流れの思想で書かれており、その中のどういう思想が勤皇の志士を鼓舞したかなどということは、頼山陽の記述の仕方が面白おかしく書かれていたので勤皇の志士の士気を鼓舞した功績があったのであって 日本外史に倒幕などということは一言も何も書かれていないとしているのである。

  歴史上の人物を評価は 変化していくその時代時代の価値観によって変わって行くとして(以下本文中より)

  ”しかし、山陽の遊蕩にというものについても、私は当時の遊蕩観に従うべきであると思う。遊蕩という現象は何時の世の中にもあるが、山陽の父の時代、寛政(1789〜1801)の世代においては謹厳がその理想的人間像であったから、山陽の行状は非難の的となった。それが山陽の世代文化文政(1804〜1840)の世代においては、遊蕩は父の世代に対する反逆であり、また積極的に肯定せらるべき価値となった。
さらに次の維新の世代のおいては、遊蕩は革命と直結して、英雄的人間像を形成するに居たり、明治の世代になると今度は一転して道徳的悪になる。”



とある。それぞれの時代のジャーナリズム上はそんなことでもあるかなと、私なりの注釈を付けたくなるが、かような論理を幾つも使って中村真一郎のこの頼山陽の人物論に展開されている。中村真一郎あっての頼山陽であると思われる。

  人物論は考証の捉え方、その時代の背景、時代の価値観、人物論を書く人や現代の価値観、人物論の展開方法等多様な要素が絡んでなにか分厚いものを頭脳に放り込んでくれるように思われる。


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インターネットで調べ、引用すると
ワキペヂアより


頼山陽
経歴 [編集]
父の頼春水は幼い頃から詩文や書に秀で、明和3年(1766年)には大坂へ遊学。尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いてその居宅を「春水南軒」と名づけた。山陽が生まれたのはこの頃である。母もまた梅颸の雅号を持つ文人で84まで長命したが、ために息子・山陽に先立たれることとなる。

天明元年(1781年)12月、春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居。山陽は城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、18歳になった寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛し京都の放蕩仲間・福井新九郎(後の典医・福井晋)の家に潜伏する。しかし新九郎の家で発見されて広島へ連れ戻され、廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。『日本外史』の初稿が完成したのもこのときである。

謹慎を解かれたのち、やはり父春水の友人であった儒学者の菅茶山(1748 - 1827)より招聘を受け茶山が開いていた廉塾の都講(塾頭)に就任。1809年(文化6年)、山陽30歳のことである。が、その境遇にも満足できない山陽は学者としての名声を満天下に轟かせたいとの思いから2年後に京都へ出奔した。

文化8年(1811年)、32歳以後は没するまで洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が亡くなるとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。山陽は京都に在って営々と著述を続け、文政9年(1826年)には彼の代表作となる『日本外史』が完成。ときに山陽47歳。翌年には老中・松平定信に献上された。

山陽はその後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』等の完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年9月23日(1832年10月16日)、ついに卒した。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。京都円山公園・長楽寺に葬られた。広島市中区袋町に復元された旧居、京都市上京区東三本木に書斎の「山紫水明處」が保存されている。


著作 [編集]

寒岩枯木図 頼山陽筆 1820年司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。

『日本外史』は武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が散見される。史書というより歴史物語と言うべきだが、幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は広島在住時の文化元年(1804年)に完成したが、のちにこれを改稿して『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、死後に門人の石川和介が山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる。

なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る〜」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収める。ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して本朝の皇統の一貫に基づく、国体の清華を強調している。



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